日本人感と語学


金沢人は〜 っていう話で、
モンゴルに居た時に 日本人は〜〜って言われた事を思い出した。


日本人はね、
物事を決定するのが遅く、行動力が少なくて、行動に起こしても遅い。
会議ばっかりしてるのか、決断力がないのか、とにかく動きが悪い。
しかも、それを日本人に言うと、みんな「そうなんだよねぇ」って言う。
判っているのに何故か改善しない。


私も「そうだよねぇ」って言ってしまった。
その時は言わずに居たけれど、何故改善しないかはわかる。
その問題は、みんな判ってるし、不満もあるんだけれど、
でも改善されないのは、自分が矢面に立つのは嫌だからなんだ。
日本の場合、もしそれで失敗したら再起不能になる危険と不安があるんだ。
もしアメリカだったら、例え失敗したとしてもその努力や意欲を評価してくれるかもしれないし、
また次回があるさ、と思える環境があり、実際に次回があるかもしれない。
でも日本ではそう楽観的になれないのだ。
また空気嫁文化もあって、慣例に逆らうのは容易ではない。

特出する事が難しい文化は、足の引っ張り合い文化だと言い換えても良いくらいだ。
これは良くも悪くも有り、全体の総意やら空気感やらに押し流されて
動き出したらイケイケで押さえが利かず方向修正が出来なくなりがちだし、
悪い時は一斉に不景気臭を発して皆が自ら辛気臭くなって行ってしまいがちなんだ。


思うに、文化は言葉に大きく依存していると思う。
これは「そんな気がする」って言うだけで、体系だって説明できるわけじゃないけれど。
日本語は多分控えめで湾曲的な表現の多い言語だ。
そういう人間だからそいう言葉になったんだとも言えるけれども、
そいう言葉を使う事によって、そいう態度や生活習慣は助長され、増大されていく。

石川県と富山県では言葉が違う。
凄く近いのに。
福井も凄く近いのに、やっぱり言葉は違う。
言葉とともに独自の文化ってモンがやっぱりある筈なんだ。
言葉の違いは単に単語の表現が違うという事ではなくって、
使用頻度の違いや発想の変化に繋がる筈なんだ。


日本人から見たらそうは見えないんだろうけれど、
中国人も案外控えめで謙遜した言葉遣いをするもんだなぁって感じる事がある。
本当は「最高」の筈なのに、「比較的に」という言い方をしたり。
こういう良いものを良いといわないっていうのは、控えめで謙遜しているとも言えるけれど
そのままプライドの高さを表しているようにも見える。

そういえば私は中国に居た時
「中国語がだいぶ上手になりましたね」といわれて「有難う」と返したら
「中国人ならそ言う時は「そんなことありません」と言う物だ」なんて言われてしまったw
勿論日本人だって大抵、本当はそういうべきなんだけれども、
その時私は「外国人」だったから、そういう答弁をしてしまったんだ。
(それと、そんなことありませんよ〜というよりも、アリガトの方が簡単に言える)


特に取りとめもないが、
言葉を学ぶ事は文化を学び、吸収するという事でもあるから、
積極的に勉強していく方が面白い。

そして言葉と共に文化比較をしてみるのも結構面白いもんだ。